磐笛こぼれ話


平田篤胤(ひらたあつたね)と磐笛


江戸末期の国学者・平田篤胤の「古史伝」には『故、その八重事代主神は天岩笛を製りて、皇美麻命に奉りて、祝ひ給ふ』とあり、「天岩笛は、磐もて製れる笛なり」 「天岩笛と云う物の凡その形は、歌口のかた細く、末太く開きて横に穴はなく、謂ゆる螺角に似て、石なるものと知られたり」と記してある。
篤胤の国学の道友・屋代弘賢は、ヤマトタケル命が東夷を平らげて帰る途中、上野国の古社に奉納したとの言い伝えのある岩笛を借りてきて篤胤に見せた。
その岩笛は、楕円形の硬い石で、重さは約26kgほどもあり、法螺貝の様な大きなものだった。
吹いてみると、音は高く響き、風格があった。
しかしどうみても人が作ったもののようだったが、近い時代の物には見えなかったので、ヤマトタケル命の時代のものであることを思わせる岩笛だったと記しています。

余談ですがこの屋代弘賢は、『弘賢随筆』で、有名な江戸UFO記事. を説明文入りで絵図にしています。

『天磐笛之記』によれば平田篤胤はのちに、鹿嶋・香取参詣の帰途、弟子がいる銚子を訪れ、近くの神社の境内に埋もれていた「天の磐笛」を授かった。
以来、すっかり磐笛にはまってしまい、それまでの屋号「眞菅乃屋(ますげのや)」を「気吹乃屋(いぶきのや)」に変更したほどであったと言われます。
この岩笛は、長さ50センチもの巨大サイズで、更に長さが88センチもある岩笛も授かったが、軟らかい砂岩だったので、ヒビが入ってしまったということです。(現在でも2つとも平田神社に門外不出の宝物として保管されていて、年に一度の大祭の時には運が良ければ見せていただけるそうです)
この岩笛は、有名な天狗少年仙童寅吉もいたく気に入り、人の言葉も耳に入らないほどに吹き続けたと言われている。

三島由紀夫と磐笛

三島由紀夫著『英霊の聲』の中には、帰神法を行う場面に岩笛の音に関する記述があります。
以下抜粋
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岩笛の音は、聞いたことのないひとにはわかるまいが、心魂をゆるがすような神々しい響きを持っている。
清澄そのものかと思うと、その底に玉のような温かい不透明な澱みがある。肺腑を貫くようであって、同時に春風駘蕩たる風情に充ちている。
古代の湖の底をのぞいて、そこに魚族や藻草のすがたを透かし見るような心地がする。
又あるいは、千丈の井戸の奥底にきらめく清水に向かって声を発して戻ってきたこだまを聞くような心地がする。
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ストーリーは石笛(いわぶえ)を吹くと、盲目の青年が神懸りとなって二・二六事件で刑死した将校や、特攻隊の兵士が歌いだすという物語です。
三島のこの帰神法に関する記述は、一時期大本教に籍を置き、後に神道天行居を創始した霊学者・友清歓真の『霊学筌蹄』を参考にしている。
友清は同書で岩笛について「岩笛も本来は、鎮魂玉と同じく神界から奇跡的に授かる"ものではあるけれど、仮に相当のものを尋ね出して用いてもよろしい。普通は拳大、鶏卵大の自然石で、自然に穴の開いたものを用いる。」と記している。

鎮魂帰神法と磐笛

 『古事記』『日本書紀』では、神功皇后が神霊の依代となり、仲哀天皇(『紀』では武内宿彌が琴師となって琴を弾き、神霊を降霊させる役を務めているが、幕末〜明治の神道学者であり、鎮魂帰神法中興の祖、本田親徳は琴に代えて岩笛を使用し、神懸り(帰神術)の神道行法を行っており、親徳はこれを学会で発表し、岩笛は現在も重要な宗教祭具としても認められている。
しかし現在では、その危険性から一部の古神道系教団や、古神道愛好家の間でしか神事には使われていない。
親徳の岩笛は、二拳を合わせたくらいの大きさのもので、穴は斜めに抜け通り、少し青みを帯びた黒色のもので神光奇しき逸品であったという。

出口王仁三郎と磐笛

本田親徳の後継者である長澤雄楯は静岡県不二見村の月見里(やまなし)神社を拠点とし、表向きには稲荷講社として、鎮魂帰神法の実修に勤しんでいたが、十年ほど経った後に此処を訪れたのが、上田喜三郎こと後の出口王仁三郎だった。
王仁三郎は当時正式な宗教団体と認められていなかった出口直を中心とする集団を、宗教団体にすべく稲荷講社を訪れ、鎮魂帰神法と審神学(さにわがく)を集中的に学び、奥義を授かった。
出口王仁三郎は磐笛について
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「天の岩笛なるものは一に天然笛と云い、又、石笛とも称えて、神代の楽器である。之れに口をあてて吹奏する時は、実に優美なる声音を発するものである・・・」
『此れ岩笛を吹奏するには、余程鍛錬を要するものである。吹きざまによりて千差万別の音色を出すものであるが、総じて耳に立って喧(かまびす)しい。むやみに「ピューピュー」と吹くのは良くないのである。「ユーユー」と長く跡の音を引いて『幽』と云う音色を発生しせめるのが、第一等である』 (本教創世紀)
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と書いています。 
草創紀の大本教団では、盛んにこの鎮魂帰神法が行なわれ、様々な憑依現象が審神された。
日本海海戦の作戦参謀だった、秋山中将も大本を訪れた際、この法を体験しているが、これらの詳細は出口和明氏著「大地の母」に書かれている。

その他の事例

昭和の初め頃まで、山口県のある神社では、神懸りして踊りだすまで、一時間も二時間も岩笛を吹き続けたそうです。
青森県の宗教法人・神道大和山では、朝拝夕拝時に教主が岩笛を吹奏しています。

穿孔石笛の出土例



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